福田正


「海運人物譜 第2集」 堀 卯太郎 著
国際海運新聞社 昭和34年12月25日発行より


 いまから八年前のある日「三十八才だ、十年経って四十八、二十年経って五十八、まあ二十年僕をみていてくれ」と筆者に語った協同商船 代表取締役の福田正も四十六才になった。二十年先まで待たなくとも、着々地歩を固めて小型船主界では既に押しも押されぬ特異な存在と なった。もっとも、彼の本業は船主ではなく、富士、八幡の専属ブローカーにある。しかし海運業者としても既に四隻、約五千屯の船主で あり、内二隻は瀬戸田造船で新造した。私も旧いよしみで二度の進水式に二度とも瀬戸田まで足を運んで祝福したが、それというのも彼は 必ず大成する男である、と男ながら惚れ込んでいるからにほかならない。彼が独立したのは終戦直後であり、協同商船をつくったのは 二十三年、彼が三十五才の時であった。ちょっと一介のサラリーマンには真似のできない芸当ではなかろうか。

大きな背景があったり、二世かなんかなら何の不思議もないわけだが、彼の場合は徒手空拳、全く努力の結晶たる点で注目されるのだ。 船舶運営会運航局長八幡屋春太郎の秘書だった頃は、まだやっと三十才になったばかりであった。 戦後直後の二十年末に運営会を辞め、走りまわって大阪の高木勝という資本家を見つけ、昭和二十一年には大和汽船を創立した。 だが、彼は元来他人に使われる器ではない。二十三年一月には辞表を出し、直ちに現協同商船を設立、代表取締役として再出発した。

彼がどうして富士、八幡にブローカーとして喰い込んで絶大な信用を博したかは、東京港の大先輩荒川敬のお株を受け継いだからであろう。 徒手空拳といっても、協同商船の設立から今日まで、陰になり、陽なたになって八幡屋春太郎が助けたことはいうまでもない。

彼は佐賀の産、父は鉄道官吏だが、家は代々伊万里焼の窯元、昭和九年早大政治科卒である。人生の第一歩は京城新聞。次いで大邸日報の 記者、一年志願で小倉に入隊、昭和十一年に除隊、大同海運に入社して若松勤務、高瑞丸に事務長として乗船したこともあるが、日華戦争 が始まるや応召、大陸各地を転戦、イモンハンを最後に除隊、再び若松支店勤務、運航実務者班組織では第三協同事務所詰となり、昭和十八年 運営会入りをして八幡屋運航局長の秘書になったが、翌十九年には当時の運営会の若手を糾合、青雲会なる団体を結集、運航実務社の青年達 の火曜会と力を合せて、運航実務者廃止、運航の完全一元化などのノロシを上げたのも彼だった。

しょせん彼はどこまで行っても野人であり、それが大同の空気の中でちっとも去勢されなかった。否、大同においてさえ少し手を焼く存在 だったかも知れない。それでいて人付き合いは案外によく、決して相手をソラさない。ゴルフは二十四、小唄は名取り、春日文福というのが その芸名、碁もやるが、これは長谷川種雄級である。

ゴルフは専ら土曜、日曜のお得意サーヴィス用だが、車を借りると一日一万円はかかる。そこで早くから自家用車を乗りまわしていたが、 その彼の弁がまたふるっていた。曰く、百二十万円で買って百五十万円の保険をかけ、勧銀からそれを担保に百二十万円借金、金利とガソリン、 保険代、運転手の給料だけで乗っている。土曜、日曜に借りることを思えば安いもの、毎日乗るだけロハになるーというのである。 その一言に彼の事業経営のコツがある。曽つては九坪半の家に平気で住んでいたが、いまはどうであろうか。ともかくそういうところに彼の 彼たるゆえんがあり、これでは事業が成功しないのがおかしいであろう。彼は荷主たる富士、八幡だけでなく、三井の進藤専務いことのほか かわいがられている。進藤が彼を愛するところを見ても、彼が只者でないのが知られよう。何年か後には、やっぱり目が高いーということになろう。



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